2024.02.23

辻野辻太郎

私の曽祖父、辻野辻太郎。

なかなか商才のあった人であったと父から聞いていました。

先日の2Fの会でNさんから当別の図書館で鹿野恵造さんという人の回想録を読んでたら辻野辻太郎と言う名前があったので辻野さんの親戚かと思ったと言われました。

かつての広報誌によると故鹿野恵造さんは当別町の開拓草創期より農業の振興と町勢の発展に挺身され、特に札沼線敷設に全力を注がれた。

当別町140年にあたり今後の町の発展を見守るよう胸像が農協から役場庁舎前に設置されました。

とあります。

そしてその回想録に書かれている辻野辻太郎とは、、、

・・・・・

辻野辻太郎は福井県(越前)の出身で、政派的には私と全く反対の立場にあった人である。

年は私より大分若 かったが、よく弁ずる方で、その頃私の側から言えば反対派になる人達を牛耳っていた。

特に学問があるという わけでなかったが、なかなか頭も利くしうるさい存在であった。

この人はあとになって妻女に死なれた。

そして再婚後間もなく東京へ移って行った。 
彼が東京へ出てから、当別町九十年祭があって彼も招かれて帰ってきた。

彼はそのとき当別へ着くと真先に私のところへやってきた。
話は昔いっしょに当別に居った当時のことになって、色々と語り合ったが、その時はもう昔年の政敵に対する極みの如きものは全くなく、彼は心から懐しがっていた。

村会で争ったようなことは、実はその場限りのものなのだ。

お互の気持の底を支えていたものは、やはり当別村の人間同志であるということだ。

その時も彼は「今度百年祭のときには、是非達者で居てくれ給え」というから「いや、百年祭には俺はもう居ないぞ。お前が生きておって、俺の代理をしてくれ。俺はとてもそれまで生きておることは望まれないな」といったら「いや、そうでない。往年の意気まだ充分残っているから大丈夫だ」などといって笑って別れたのであった。

・・・・・
なんとも当時のいさかいが彷彿される会話である。

父からも辻野辻太郎さんは商人系勢力の中心人物で、伊達主流派とはしょっちゅうもめてたそうである。

あ、今の私とは違いますよ。

という事で面白い本を教えてもらいました。

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