2023.05.04

化石燃料の旅

天売・焼尻行きが船の欠航のため急遽、羽幌炭鉱跡地と石狩油田跡地探索の旅に切り替えました。

私は羽幌がかつてこんなに炭鉱の町であったとは知りませんでした。

築別駅跡。

羽幌炭鉱には築別、羽幌、上羽幌と大きく3つの坑口がありました。

この地方の調査は明治7年アメリカ人のライマンによってなされ、石炭調査は明治21年に道庁の桑田技師によって行われたのが始まり。

試行錯誤の後、太陽産業株式会社(後に羽幌炭鉱鉄道)が昭和15年から採炭を開始して、昭和36年に100万トン、人口も炭鉱地区で1万人を超えた。

時代とともにエネルギーが石油に代わり石炭の需要も少なくなり、ついに昭和45年にその幕を閉じた。

羽幌炭鉱鉄道の橋

羽幌炭鉱鉄道は羽幌炭鉱から産出される石炭を搬出するために建設された鉄道で、1941年に開通、1970年の炭砿の閉山とともに廃止された。

太陽小学校跡。

羽幌炭鉱築別坑のホッパー棟。

排気立坑

アパート郡跡地。

病院跡地。

中学校跡地。

羽幌炭鉱第2選炭工場貯炭場。

住居跡。

上羽幌坑跡。

以上、羽幌炭鉱跡地を巡ってきました。

会社としての羽幌炭鉱鉄道は実業団活動に力を入れ、野球部、男女バレー部、スキー部ジャンプチームは国内トップクラスの実力を誇り、築別にはジャンプ台があり笠谷昌生(あきお= 笠谷幸生の兄)などが活躍。

羽幌炭砿は「石炭産業は必ず国策的な産業になる」という金子直吉の持論から鈴木商店により取得された炭鉱。

金子 直吉(1866年 – 1944年)は日本の実業家。
鈴木商店の「大番頭」として大正時代には三井財閥、住友財閥、三菱財閥をしのぐ規模の企業グループに拡大させ財界のナポレオンともいわれた。
鈴木商店破綻後、金子直吉は羽幌炭砿に主家再興の夢を賭けた。

一方で羽幌炭砿鉄道は札幌市中央区大通西五丁目に「大五ビル」を昭和29(1954)年8月竣工。
ビルの名称は地番(大通西五丁目)に因んで命名したもので、本社事務所が入っていた。

さてさて長い午前中を羽幌で過ごして次は留萌の大和田へ移動。

ここも昭和30年代までは炭鉱があったらしく抗口近くで石炭の破片を拾ってきました。

コロナ明けのゴールデンウィークと言う事で小平の道の駅のタコザンギ、増毛の寿司屋まつくらは全て行列ができてました。

仕方なくコンビニで軽食を買い、帰途へ。

途中、お冬で白銀の滝を見たついでに展望台にも登ってみました。

展望台はなかなか迫力がありました。

化石燃料の旅、最後は久しぶりに石狩油田跡地へ。

かつて石狩市には石狩油田、厚田油田、茨戸油田の3つの油田がありました。

中でも石狩油田は北海道内でも大規模な油田で現在稼働中の勇払油ガス田に抜かれるまで道内最多で、山中に商店や学校、神社や娯楽施設がありました。

そして今でもブクブクとガスが沸いてるところがあります。

以上、行程約400kmに渡り、炭鉱跡と油田跡を巡ってきました。

振り返ると北海道は石炭を主産業とする短い繁栄期があり、繁栄のピークまでの時間は短かったけど、衰退するのも早かった。

これからは資源循環的な社会が求められるのでしょう。

この投稿を共有する
  • Twitter
  • Facebook
アーカイブ
一覧へ