森鴎外を読みました。
またまた読書とは何か?を考えてみました。
まず読む前の森鴎外に対する既成概念があります。
私の森鴎外に対する印象は難しい、読みたくない、堅苦しい、昔の言葉がわからない、などなどでした。
読んでみると面白い、意外と自分の経験を書いてるんだな、舞姫は漢文的な文体だけどビタ・セクスアリスは現代に近い文体、舞姫は短い、日常的なテーマがある。
森鴎外を実際に読む事により森鴎外に対する既成概念が変わります。
あるいは森鴎外を読む前に誰か他人が森鴎外を評価したとします。
私は読んでないから何のコメントもできません。
そしてその人の評価を一旦、受け入れます。
果たしてその人の評価と私の評価は一致するだろうか?
自分なりの森鴎外に対する意見を持ちたいから実際に読んでみる、となります。
森鴎外は勉強家だな、エリートなりの悩みもあるけど凡人的な部分もあるのだな、「半日」を読むと身につまされる、「金比羅」を読み昔は子供が病気で死ぬなんてよくあったんだ、などの自分の意見を持ちます。
森鴎外に対しては陸軍医時代の脚気論争で大量の死者を出した責任を求める意見があります。
森鴎外は軍医であったけど衛生学が専門であったようで、当時は今ほど細菌に関する科学的な知識がなく、脚気は伝染病だと言う意見があったけどビタミンを含む麦飯を食べさせるべきであったと言う意見があります。
そのタイミングや意思決定の責任が森鴎外にあったかどうかの論争もあるようです。
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既成概念や他人の評価に影響されないためにまず実際に本を読んでみる。
読書に限らず物事全般に言えることかもしれません。