いつもの自分と違う世界を覗いてみる、ってたまに必要です。
私が演劇見るって似合わない、だからあえてやってみた。
昨日はかでる2・7で開催された演劇「12人の怒れる男」を見てきました。
昔、この映画を見て心に残っていました。
7月の初めにたまたま車でラジオをつけたらこの演劇の事を話してました。
そして先日、知り合うのフェイスブックにこの劇の事が載っててこれは私に見に行けと言う事かなと思いました。
舞台を360°取り巻くコロナにも関わらずビシビシの観客席。
有罪間違いないと思われた親殺しの不良少年の陪審員会議。
12人全員一致で有罪か無罪を決める蒸暑い密室での長時間にわたる議論。
1人の陪審員が有罪への違和感を抱く。彼はこの違和感が解消されないと自分は有罪と決めれない、だから議論をしたいと言い出します。
今も残るアメリカ社会の貧困や差別問題が偏見となって陪審員の判断を支配しますが、議論してるうちにおかしな事に気づき始め、最終的には全員無罪となります。
昨日はこの劇の最終日だったから結論を言っちゃいました。
こう言う人自分の周りにもいるなぁと思う12人の個性。
役者の語り、間合いの取り方、感情表現、どれも迫真に迫ってました。
人それぞれこの演劇を見て感じる事は違うと思いますが、私がひとつ挙げるとするならば「違和感の解明」の大切さとしたいと思います。
アメリカに染み付く偏見を日本に置き換えると「同調圧力」があると思います。
同調は悪い事ではないが、それが圧力的になるとある偏見となる、そこに異議を唱えた時に周りはどう反応するか?違和感を解明するのはとても困難な作業になる。
「違和感の解明」への表明がもたらす事態は厄介だけど、それを避けてたら正義は来ないかもしれない。